自由は、権利と責任のバランスが取れ、選択したものが良心とバランスが取れたものであるときにのみうまく機能します。
内面の葛藤についても、外部の争いについても、これを終わらせる最も強力な力は、人間の良心です。

自由は、解放の体験、私にはさえぎるものがないという気持ちにしてくれる貴重なギフトです。自由な状態は、まるで地球や空や海が自分に尽くしてくれているかのようです。

自由、解放という概念は、人間を魅了します。今日の世界で最も熱望されているものの一つは、自由でしょう。人は、人生の目的を追求するために、束縛のない生活スタイルを選ぶために自由を求めます。自由であれば、自分も自分の子供も健康に育ち、自らの手と頭脳と心の働きで繁栄を手にすることができます。
人は喜んでどこかに出かけ、何かをしたいと思います。そして、社会的、政治的、経済的権利とその特典を楽しみたいと思います。要するに、人間は、選択し、リスクを冒し、成功する自由が欲しいのです。自由は、権利と責任のバランスが取れ、選択したものが良心とバランスが取れたものであるときにのみうまく機能します。権利あるいは具体的選択肢の、どちらかにだけ焦点を当てて自由を主張したり、努力が傾けられると、自由の体験をすることは、個人的にも、集団としてもできません。権利と選択が誤って解釈されたり、間違った使い方をされると、心の中で、あるいは、精神的、物質的、社会的、経済的、政治的など、さまざまな形で負債を背負うことになります。
自由を守るためには、一人一人が言い訳をしてはいけません。たとえば、わずかな貪欲性、ちょっとした攻撃性、多少の怒りが、その場所にある物や人を守るためには必要であるという理由が付けられて、それらが実際に生じてしまうことがあります。こうした妥協は、何かを侵害されたことで始まりますが、たちまち何倍にも膨れ上がってしまいます。そして、他の感情や行動をも正当化するようになります。有害でネガティブな考え、言葉、行動は、それと同程度の反応を生み出します。別な言い方をすれば、自分が発生させた感情など、種をまいたものは、相手からの反応などの形で刈り取らねばならないのです。これは、カルマの法則として知られている自然な行為の法則です。カルマの法則とは、個人であれ集団であれ、ポジティブなものであれネガティブなものであれ、勘定は精算され、借りた負債は返さなくてはならない、というものです。

政府、団体あるいは、奉仕をするという責任を持つ何らかの集合体システムのひとつの機能は、3つのレベルで自由を守り、促進し、保証することです。
3つのレベルとは、次のようなものです。
1)個人のレベルで、広く身体的にも精神的にも苦痛、痛みを予防し、自己実現と自己表現が促進されること。2)集団、社会、国の中で、人間の権利が、確かなものとされるよう、正義と平等を伴って表明されていること。3)自然の法則を完全に尊重するという意味で、自然の中で、汚れのない人生における自然な権利を確かなものにに、一貫してゆるぎないものとすること。
自由という貴重なギフトの管財人として、自由が侵犯されることへの対応として、私たちは人々を“鉄の鎖の抑圧”から解放しなければならないという責務を自覚します。自立していたとしても、一人一人が情欲、怒り、執着、エゴ、貪欲性、暴力という自分自身の“鉄の鎖”に束縛されています。人は内面つまり自分の心の中で戦っていて、この戦いの場からすべての戦争が生まれるのです。

ですから、人間の心、知力の中の複雑さと混乱から自由になる必要があります。このような戦いは、“鉄の鎖の束縛”の影響によるネガティブな考えや無駄な考えの処理という形で体験されるでしょう。大雑把に怒りの感情は克服したかもしれなせんが、微妙な敵対心、復讐、が続いているかもしれません。一人一人の性質はユニークです。けれども、意識や態度で簡単さ、軽さ、慈悲を持つことこそが前向きな対応であり、ネガティブな性質の影響から自由でいるための良い方法です。

究極の自由は、身体という意識で行われる行動、つまり自分自身と感覚器官への執着、世間的な所有物への執着から生み出される束縛からの解放です。これは、人を愛すことなく愛されることなくいる方がいい、という極端な姿でいることを示唆するものではありません。それとはまったく逆に、自分自身の内面で、より自立し、外部の何かに依存することなく、より愛らしい性質であるということです。

自分の改革によって、世界の改革のプロセスが始まります。個人として自由にならなければ、世界は戦争や不正儀から解放されることはありません。戦争に終止符を打つ- そして魂を解放する -最も力強い力は、人間の意識です。どのような自由についての行為も、本来の意識の状態と同じ線上にあるとき、高貴なものになり、力を満たし、解放をするという活動を行うのです。